ミホノブルボンが28歳で老衰のため死亡したそうです。

 

戸山為夫調教師の元で、坂路で鍛えに鍛えて2冠馬に輝いた馬でした。

 

菊花賞でも惜しくも2着でしたが、逃げ馬で3000mを逃げて2着に粘るなんて、中々いませんよね。

 

最強の逃げ馬といっても言い過ぎではないような気がします。

 

今回は、ミホノブルボンについて振り返ってみたいと思います。

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ミホノブルボンとは?

ミホノブルボンは、1989年4月25日生まれの28歳の牡馬。

 

門別の原口牧場で生産された馬で、調教師は戸山為夫氏(後に松元茂樹氏)、馬主はミホノインターナショナル でした。

 

そして、騎手はデビューから最終戦まで小島貞博騎手が務めています。

 

父親は現役時代は6戦未勝利だったアイルランド生まれのマグニテュード。

 

マグニテュードの父親は、凱旋門賞を優勝したミルリーフ。

 

母親はカツミエコーで、カツミエコーの父親はシャレーでした。

 

ミホノブルボンは坂路で鍛え上げられたことから、「坂路の申し子」と呼ばれていたそうです。

 

今でこそ、美浦トレセンでも坂路調教は当たり前のように行われているが、ひと昔前は、坂路といえば栗東トレセンにしかない「名物」以外の何ものでもなかった。そして栗毛の快速馬・ミホノブルボンこそは、そのような時代の「坂路の申し子」だった。
栗東に坂路ができた当初からこれをフルに活用することで知られた戸山為夫調教師(故人)の方針によって、これ以上はないというぐらいのハードトレーニングを課せられ、心肺機能と四肢の筋力を極限まで鍛え上げられた馬。それが、ミホノブルボンなのである。
だからこそ彼は、「距離の不安」説を吹き飛ばし、皐月賞、ダービーを見事に逃げ切って、二冠をものにすることができた。三冠のかかった菊花賞では惜しくも0秒2差の2着だったが、血統的にステイヤーとは言いがたい馬が残した実績としては、申し分のないものだった。
闘病中の身でありながら、いつでも坂路のスタンドに陣取って愛馬を見守る戸山調教師と、筆者も当時立ち話をさせてもらったことがある。その折、信念の強さに感銘を受けたものだ。坂路で鍛えてどこまで馬が強くなるか、自身の方法論が言わば「実験段階」にあることを、師は公言してはばからなかった。その言葉には、馬がハードな調教に耐えられずに潰れてしまうリスクもある、という意味が含まれていた。外野席からは「あのやり方は人間のエゴにすぎない。高馬を預かったら、あんな真似はできない」という野次すら飛んでいることを、十分すぎるほどに理解していた。ミホノブルボンが購買価格の決して高くない馬であることも事実だった。それらすべてを承知の上で馬を鍛え、結果を出した戸山師は、自らの信念に賭け、その賭けに勝ったのだ。
菊花賞のあとのミホノブルボンは故障に泣かされ(リスクが現実のものになったのかもしれなかった)、再びレースに復帰することなく引退した。その間に戸山調教師も亡くなって、厩舎は解散した。しかし、いや、だからこそ、というべきだろうか。戸山為夫さんという、ひとりの優秀なホースマンの置き土産としてのミホノブルボンは、今も、この世に残されたわれわれの心の中を疾駆しつづけているのである。

出典 JRA

ミホノブルボンの戦歴

ミホノブルボンのデビュー戦は、1991年9月7日に行われた中京芝の1000mの新馬戦でした。

 

ミホノブルボンは、1人気に応えて新馬戦を快勝しています。

 

この新馬戦では、逃げではなく差して勝っていますね。

 

しかも上がりが33.1秒ですからスゴイ瞬発力です。

 

2戦目は、東京競馬場で行われた3歳500万下の平場戦(1600m)です。

 

こちらは好位追走で、4角から先頭に出ると、最終的には6馬身差の圧勝でした。

 

3戦目は、G1の朝日杯3歳ステークスで、伝説の8頭立てのレースでした。

 

ミホノブルボンは、直線に入り先頭に立つと、2着のヤマニンミラクルをハナ差抑えて勝って3連勝を飾っています。

 

年が明けて、ミホノブルボンは皐月賞のステップレースであるフジTVスプリングステークスで生涯初の2人気となっています。

 

しかし、ミホノブルボンは、このレースで2着馬に7馬身差の圧勝をしています。

 

画像を見ると、このレースで初めて逃げていますね。

 

続く第5戦は、G1の皐月賞ですね。

 

この皐月賞でも、ミホノブルボンは逃げて2着馬のナリタタイセイに2馬身1/2の差をつけて勝って5連勝しています。

 

そして、6戦目が日本ダービーとなります。

 

皐月賞から400m距離が伸びるわけですから、逃げて日本ダービーを勝つのは大変なことです。

 

しかし、ミホノブルボンは2着馬のライスシャワーに4馬身もの大差をつけ、逃げて勝っています。

 

日本ダービーの後、ミホノブルボンは休養に入り、秋初戦に京都新聞杯を選んでいます。

 

ミホノブルボンは、2着馬ライスシャワーに再び1馬身1/2の差をつけ、デビュー以来7連勝を飾っています。

 

そして、ミホノブルボンは3冠最後の菊花賞に挑みました。

 

もちろん、ファンはミホノブルボンのクラシック3冠を信じ、単勝1.5倍の1人気に支持していました。

 

しかし、最後の菊花賞でミホノブルボンは、日本ダービー・京都新聞杯で下したライスシャワーに、逆に1馬身1/4の差をつけられ敗退します。

 

生涯で、たった1度の敗退でした。

 

このあと、ミホノブルボンは脚部不安や右後脚第3中足骨を骨折してしまい、菊花賞が最後のレースとなりターフを去ることになりました。

 

わずか700万円で取引されたミホノブルボンが獲得した賞金額は5億円を超えるようですので、凄い馬だと思います。

ミホノブルボン産駒とその後

http://uma-furusato.com/から引用

 

現役引退後、ミホノブルボンは日高軽種馬農協門別種馬場で種牡馬となり、生まれ故郷のファニーフレンズファームで過ごしていたそうです。

 

ミホノブルボンは現役時代に活躍したことから、産駒にも期待が集まりましたが、残念ながら中央競馬で重賞勝ちした産駒の誕生はありませんでした。

 

地方競馬では、南部駒賞・東北サラブレッド3歳チャンピオンのミヤシロブルボン、北関東ダービーや・北関東菊花賞を勝ったメモリーブロンコ辺りが代表産駒となるでしょう。

 

2012年には種牡馬を引退し、スマイルファームで余生を送っていたそうですが、28歳での大往生でした。

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最後に

坂路で鍛え上げられた馬というイメージの強かったミホノブルボンでしたが、結構優秀な血統で構成されています。

 

ただし、産駒があまり活躍していないところを見ると、やっぱり調教師である戸山師のスパルタ調教がミホノブルボンの成績を上げさせたといっても過言ではないでしょう。

 

ミホノブルボンに哀悼の意を表したいと思います。

 

お疲れ様でした。

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